渥美清 最初のがん宣告は1970年代後半だった

渥美清は、転移性肺癌により68歳で他界した。この肺がん宣告を受けたのは1991年といわれているが、肺に転移する前、最初のがん宣告はいつ頃のことだったのだろうか?

渥美清の俳人としての一面に迫るルポルタージュ『風天 渥美清のうた』には、その手がかりが記されている。本書には、渥美清をよく知る関係者へのインタビューが収録されているが、そのうちの一人、長男の田所健太郎氏が、渥美清の最初のがんについて語っている(健太郎氏は元ニッポン放送のラジオディレクター、現在はフリーラジオディレクター)。

インタビューは、渥美清がどんな父親だったかについて、健太郎さんの思い出話からはじまる。

「父は我々家族を外に出しませんでしたが、それと同じように外のことは一切、家に持ち込みませんでした。台本を持ち帰るなんてことはもちろんないし、仕事の話は絶対にしなかった。私もこの年齢(三十七歳)で父親になってわかるんですが、それはもうすごい徹底ぶりでした。当時、父は渋谷の代官山のアパートに部屋を持っていたので、(そこを仕事場として使い)家には手ぶらで帰ってきました」

「面白くて怖いおやじだった。家族旅行にもよく行きました。僕たち子供の春休みとか夏休みなどを利用して軽井沢や温泉地に。いつも電車でしたよ」

仕事を家庭に一切持ち込まない、家族旅行には電車で行く、というのはスターの家族としては一風変わっている。渥美清らしいエピソードである。

さて、父親のがんについてのコメントは以下の通り。

「父ががんという病気であることを知ったのは僕が幼稚園のころでした。いつも『オレはもう死ぬんだからお母さんの言うことをよく聞いてしっかりやれ』という叱られ方をよくした」

「九一年の宣告は(もともと持っていた原発の)肝臓がんが肺に転移したときの話だと思います。医師に呼ばれて母と妹の三人で写真を見ながら説明を受けました」

1971年生まれの健太郎氏が幼稚園の頃というと、1974年から1976年あたり。この頃には、渥美清の最初のがんが発見されていることになる。男はつらいよの作品群でいうと、以下の作品が該当する。

  • 1974年(46歳)
    • 第13作『男はつらいよ 寅次郎恋やつれ』
    • 第14作『男はつらいよ 寅次郎子守唄』
  • 1975年(47歳)
    • 第15作『男はつらいよ 寅次郎相合い傘』
    • 第16作『男はつらいよ 葛飾立志編』
  • 1976年(48歳)
    • 第17作『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』
    • 第18作『男はつらいよ 寅次郎純情詩集』

なんと、『男はつらいよ』シリーズが中期に差し掛かり名作を連発していた頃、渥美清は人知れずがんの告知を受けていたのである。スクリーンの寅さんには精気がみなぎっており、がん宣告を受けていることなど想像もできない。

その後渥美清は、最終作『男はつらいよ紅の花』が公開される1995年まで、およそ20年間にわたりがんをひた隠しにして車寅次郎として役者人生を全うする。20年にわたり、少しづつ落ちていく体力の中で、車寅次郎を期待されつづける人生。渥美清は何を思いその生を全うしたのだろうか。

渥美清のがん闘病については、渥美清の付き人・篠原靖治氏によるノンフィクション『渥美清 晩節、その愛と死』にも詳しい描写がある。若くて溌剌な若き日の寅さんを知るファンとしては、痛々しい記述の多い一冊であるが、渥美清がいかにして死に向き合ったのかを知る貴重なドキュメントとなっている。

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      2016/06/01

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