『男はつらいよ魅力大全』/吉村英夫


本書は「男はつらいよ」シリーズ第45作『寅次郎の青春』公開直前の1992年11月に刊行された、映画評論家による「男はつらいよ」シリーズの評論本である。

年に一度か二度、気楽に寅さんを楽しむ標準的なファンを想定読者としているようで、作品以外への言及を意識的に抑えた、ストレートな寅さん評論本となっている。

シリーズ全48作を繰り返し鑑賞し、作品以外にも触手を広げるマニアにとっては、目新しい内容はそれほどないかもしれない。しかし、前述の通りライトなファンにとっては「男はつらいよ」の奥深さを感じるのに必要かつ十分な解説書と言えるだろう。

シリーズを初期(1~8作)・高揚期(9~17作)・模索期(18~37作)・再生期(38~45作)と分類し、それぞれの期における代表作と変遷について解説しながら、全期に通底しているシリーズのお約束についてもしっかりと解説している。

私にとっては、シリーズの魅力をひとつひとつ再確認していくテキストであったが、新しい視点を発見するような評論も多数あった。以下引用。

『男はつらいよ』は、映画における「歌舞伎・勧進帳」である。(中略)歌舞伎や落語が長い年月の間に余分なものを削ぎ落として簡素な様式を創造していったように、『男はつらいよ』も煮詰められ洗練された結果が今のようなものになった。(第4章 マンネリズム礼賛 100P)

とらや一家は寅に困りながらも寅が好きだし彼を愛している。寅は市民社会から排除された被差別者であるとの説もあるが、むしろ、寅の本質は、生き生きとした混沌をとらやの日常に持ってくる者としてとらえた方がよいのではないか。(第7章 落ちこぼれの栄光 143P)

『男はつらいよ』は旅のドラマではあるが、厳密にはロードムービーではない。それは寅の旅に対して、さくらたちの定着的日常がどっしりと対峙しているからである。(中略)沖縄という「非日常」からとらやの「日常」へとドラマが持ち込まれることで、『寅次郎ハイビスカスの花』という映画そのものが日常性の濃いドラマに変身する。(第8章 寅とリリーの旅 183P)

寅を性的不能者だとか、モノセックスだとかをことさらあげつらって論評するのは生産的でない。(中略)病める映像としての暴力・犯罪・セックスとは違和感を持って映画づくりをしている山田の姿勢を読み取るべきだし、「パンツを脱がない寅」だからこそ、寅さんにも『男はつらいよ』にも魅せられる圧倒的な数のファンがいることを重視する必要がある。(第9章 寅次郎「ヰタ・セクスアリス」 194P)

シリーズ高揚期あたりまで、観客は美女と結ばれよかしと願ったが、模索期以後になってくると、寅さんが愛する女性といっしょになることをどこかで望まない気分が出てくる。(中略)寅が美女と別れて、旅に出ることが観客にもいちばんよい結末であり、それが観客にとってのハッピーなエンドになっていく。不思議な観客側の変化である。(第9章 200P)

本書においてもっとも注目すべきは、巻末に収録された山田洋次監督へのインタビューだろう。

ご存知の通り「男はつらいよ」シリーズは、主演・渥美清の死去により第48作で終了するが、シリーズがまだまだ続行可能な第45作公開当時、山田洋次がシリーズの最終回をどのように考えていたのかを知る貴重な資料となっている。

「寅さんは死後お地蔵さんになる」というエンディング構想があったことはファンの間では有名な話だが、山田洋次本人がそれについて詳しく語るテキストを、私は本書で初めて読むことができた。原作者の考える寅次郎の晩年は、寂しくて不幸だが、人々に幸せや夢を与えるものでもあったようだ。

寅もいつか生涯を終えるだろうが、そうすりゃ必ず柴又の帝釈天の境内に寅地蔵というのが立って、特に恋の悩みには大変効き目のあるお地蔵さんになる。末永く、いつまでも恋に苦しむ人たちの力となって存在し続けるだろうというのが、寅さんの晩年ですよね(笑)。(山田洋次監督へのインタビュー 270P)

そのような構想が腹案としてありつつも、山田はシリーズの幕引きを「いつの間にか終わっている」「最初から終わりという意識を持たずして終わる」べきだと考えていたことがこのインタビューからは伺える。

      2016/06/13

 - 男はつらいよ書籍紹介